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アラサーOLの、もがく日記。

着地点はどこか

茹だるような暑さの中、またひとつ齢を重ねました。
更新が滞っている間に、東京で3度目の夏を迎えました。線路沿いの小さな桜の木は早々に花を散らし、新緑の葉も照り付ける太陽に艶を失ってしまいました。

詳細に書いていませんでしたが、2015年4月に転職・上京したのち、2016年4月に今の会社に転職しました。このご時世お察しでしょうが最初の転職先が非常に非情でよろしくない職場環境でしたので、悩んだ末、再転職活動を決意しました。幸い、厳しくも働きやすい今の環境に身を置くことが出来、日々を過ごせています。状況によりますが、多様なボーダーラインを綱渡りしているわたしの年齢では、早い決断が良い結果を生んだのかな、と思っています。仕事内容も望みの斜め上をいった変化を遂げ、2年前には考えられなかった仕事に日々奔走しています。自分の運の良さと、自分を乗せて流れていく運命の緩流とに、今はただ逆らわずに日々を過ごしています。すべての出来事が伏線を回収しているようで、時に恐怖さえ感じます。すべては最初から決まっていたのではないかと。置かれた場所で咲くように説く人もいるけれど、わたしは居るべき場所で咲くことが大切であると感じています。

同時に、自分がどんな着地点をもった人間であるのかを想像しながら毎日を過ごしていきたいと考えるようになりました。目の前の出来事がどれだけ強いインパクトをもっていたとしても、可能性はひとつの事象の中ではなく鳥瞰的に見た世界の中に無数にあるのだと思っています。

恐らく二度と故郷へ帰ることはない(生活することはない、という意味で)ですが、心のどこかで自然の中へ戻りたいと願うようになりました。
わたしは28歳という年齢で何も持たない状態でふらりと上京し、ニュースで見ていた都心のビジネス街に流れ着き、特殊な形ではありますが会計ビックバンの産物である企業会計の最前線の仕事を齧りながら毎日を過ごしています。上京前に思っていたことは「経理がやりたい」というお粗末なものでした。「お勉強したい」と教科書片手にはにかんでいたら「悠長なことをほざくな、仕事をこなせ、実践で脳みそに叩き込め」と世界がガラリと表情を変えたのです。昨日まで畑を耕していた百姓が「鍬など捨てろ、種子島持って戦場に行け」と鉄砲隊の列に放り投げられた感じです。
そんな状況下で、「都会で働く」ことを本質的に理解し始めた自分がいます。肩にかかる重圧も、あらゆる物事のスピードも、許容される振り幅も、形あるものの多様性も、ヒエラルキーの境界線の濃さも、そしてもちろんチャンスの絶対数も、すべてが圧倒的に違うのです。

前述したとおりわたしは運が良くて、悩みながらも転職というかたちで環境を変えたことで状況が好転しました。それでも「乗り越えられないかもしれない」と思うほどの重圧を伴う出来事が時々起ります。壁を越えた先に、必ず巨大な壁があります。自分の中身が、自分の置かれた環境レベルと自分の手元にある仕事レベルに追い付こうとアクセルをベタ踏みするのです。
アクセルを踏み続けることが出来るのか。その問いに、31歳という中途半端に成熟した年齢を迎えたわたしは、即答出来ずにいます。
キャパを広げることを絶対的正とした20代の終わりを、実感しています。
この年齢で自分のキャパを知らない人は少ないでしょう。ある一定程度の経験値を持った人ならば、キャパとスキルの兼ね合いも取れるはずです。その中で自分をどう成長させるのか、広げるというより掘ることが出来るのか。当たり前のように部下がいて上司がいて、潤滑油や栄養剤としての役割を担っています。そして求められる結果は、もはやプロのそれ。自分を見失う程度の負荷は日々の生活だけで十分のしかかるように、この世界はできています。

舵取りを自分でしなければ、この日常は実態無き「虚無」に成り得ると思っています。「気付いた時には何も無い」なんて、ザラに起こりうるであろう「普通の日常」。
舵を取り、風をよんで帆を張り、状況を見て港にとまり休息をとりながら、目的地を目指す。辿り着いたら「通過点」に変わるかもしれなくても、辿り着く目的地は、必要なんだと思います。そうでなければ、船は壊れるまで、もしかしたら壊れてもなお、大海原を漂うことになってしまいます。それでは何も残らない。海の藻屑となるために船を漕いだわけではないはずです。

今の日常はギフトと呼ぶには苦しいことが多すぎますが、それでもわたしにとって奇跡に近い必然が重なって与えられたものだと思います。どんな人にも平等にチャンスがあるなんて、そんな綺麗ごとは存在しないということを、わたしはもう知っています。不平等な世界で手に入れたこの環境下で大切なのは、紛れもなく「自分」であって、この時間はすべてわたし自身のためにあるのです。
そうなのだ、うん。うんうん。(自分に言い聞かせてみる)
役割も課題も多い中で、自分の着地点と成り得る「着地点候補」から目を離さずにいたいと思います。可能性や、出来事の本質は、嵐の中ではなくその先の晴天のもとで姿を現すはずです。
要するに、毎日多忙なのです。そして仕事が充実しているのです。
そして、着地する候補地を探しているのです。

久しぶりにブログ書きました。やっぱ吐き出すのはいいですね。
では、暑さ厳しい日が続きますので、ご自愛ください。

まいにちのはなし

冬がそこまで来ていますね。
昨日、買い物途中にふと目についた柿を買って食べました。近頃人工の甘味料ばかり食べていた自分の舌が、久々に健全な甘味に触れて喜んでいました。秋はわたしの五感の全てを満たしてくれるので大好きです。冬将軍がもう少し足踏みしてくれれば嬉しいのですが、来週あたりには攻め込んできそうですね。
 
ここ数か月、仕事での波(長い目で見れば今の環境での第一波とでも言うべき)を乗り越えて、まずまずの心持で年の瀬に向かっています。あれやこれやと色々なことが起こりますが、深呼吸してみれば大抵のことは笑って通り過ぎることが出来ています。生活に有意味感があると言うのは幸せなことですね。総じて楽しければ万事良し、ってな感じです。
 
相変わらず隙を見ては本を読んでいるのですが、最近「出会った」と表現したい本が2冊あります。エッセイと呼ばれるものが嫌いだったわたしが、この本はきっと何度も読み直すと確信した2冊。
春になったら莓を摘みに

春になったら莓を摘みに

 

 

不思議な羅針盤

不思議な羅針盤

 

 そもそも、ここ数か月は梨木香歩さんの本を読み漁っています。(ほぼ梨木香歩さんの本しか読んでいない)物語そのものもさることながら、美しい日本語に魅了されてしまいました。世界観の全てが素敵なのです。映画化された『西の魔女が死んだ』の印象が強いですが、『家守綺譚』や『裏庭』『沼地のある森を抜けて』等々、濃厚ファンタジー作品も端麗な日本語で淑やかに書き上げており、どの作品をとっても、著者が描くしっとりとした美しい湿地帯の中にふらふらと入り込んでしまうような感覚を味わえるのです。著者の物語にはまり込んで、中身も確かめず買った中に上記のエッセイが入っていました。

『春になったら莓を摘みに』は異国での日常や出会いが登場人物への尊敬と情愛の念を込めて書かれており、『不思議な羅針盤』は今この瞬間のような何でもない日常を著者の感性と筆力で珠玉の内輪話に仕上げたようなお話が書かれています。今まで何度か手にしたエッセイというものは、どこかしらに「自分の生き方への絶対的肯定感」が感じ取れて苦手でした。自己啓発本にあるような押しつけがましさが行間に見え隠れして、妙に白ける感じがあったのです。それがこの本には感じられませんでした。要は著者が、完全に「わたし好みの人」だったのです。
物語の時にも感じていた言葉の使い方、生活に対する姿勢、他人との距離感、女性としての生き方。ひとつも違和感なく、わたしを代弁してくれているような、肯定してくれているような、安心させてくれているような、不思議な気持ちにさせてくれる本でした。他人との感覚のズレで起こる小さな溝を、修復するでもなくただそこに在ることを認めてくれるような、そんな感覚。日常の淡い美しさに気付けるのです。潔く生きる(著書では植物に向けて似た言葉が使われていたけれど)、という言葉に、自分の生き方の理想形を見つけました。穏やかに健やかに生きることの潔さ。半径数メートルの世界で起こる幸せを喜ぶ日常。依存せず共存するという距離感。わたしが思う生き方が、静かに散りばめてあります。雑音や雑念に心の核となる部分が覆われてしまうことがあったら、この本を開こうと思っています。朝とともに、どれも1回限定で訪れる「まいにち」を、自分の出来る範囲で大切に過ごすために。
 
時々、ふと「あ、わたし今さみしいのか」と気付く瞬間があります。若い頃の「人恋しい誰かといたい構ってほしい」という寂しさとは違い、本物の孤独がわたしの中で成熟して形を成したんだと思います。だからこそむやみやたらに誰かと過ごさず、自分自身のその感覚と付き合って「まいにち」を過ごすことを大切にし、自分の本当に好きなもの好きなこと好きなひとを探して選定しています。そうして日々、自分を好きになっています。不思議なもので、自分を好きになればなったぶんだけ、他人を好きになれるのです。自分の「まいにち」を大切にすればするだけ、他人の過ごす「まいにち」を大切にできるのです。誰といてもどこにいても訪れる孤独は、それが成熟されたものであるならば、他人と生きるために必要不可欠なものです。
現実は苦しく、過去は重く、未来は暗く、それでも「まいにち」は素晴らしいです。退屈で寂しくて悲しくても「まいにち」は素晴らしいものなんだなぁと感じるんです。その漠然とした誰とも共有できない(気恥ずかしい、という理由で)感情を、初めて読了したエッセイが言葉にしてくれました。こんな雰囲気の毎日を過ごしたいんだ、というぼんやりした理想形と共に。
 
なんだか久しぶりにブログを書きました。いや、いつも久しぶりですね。今年もあと1か月と少し。わたしも、みなさまも、悔いなく風邪引かずマイペースに、良き「まいにち」を。