UptoU

アラサーOLの、もがく日記。

現実か理屈か

思考の垂れ流し日記書きます。

 
先週、梅雨の奴が絶好調で大雨続きだった平日。
会社で死んだ魚の目をしながらキーボード叩いてたんですけど、何だか不思議な音が窓の外から聞こえまして(弊社は1階です)気になって窓の外を覗いたらなんか薄茶色の毛玉が駐車場の隅っこに見えたんです。で、毛玉がこっち向いたんですね。それはそれは、心臓鷲掴みにされちゃうくらい可愛い茶トラの子猫ちゃんでして。恐らく母猫を呼んでミャーミャー大絶叫しながら、びしょ濡れというか大粒の雨に打たれて滝行のような状態でうずくまっていたんです。「おいおい、ベタだな」ってくらいの状況でして、傘とタオルを手に救出に向かいました。
 
で、まぁ結論から言いますと、保護出来ませんでした。
「そういえば傘って両手使う場面では使用不可能だよね無理あるよねそうだよね」なんて改めて思いながらびしょ濡れになって保護を試みたんですけど、死にもの狂いで暴れた子猫は一度くるまれた温かいはずのタオルから飛び出し用水路脇の草むらに入り込んでしまいました。
その様子にセリフを付けるなら『ギャ―――!!!殺される―――!!!!!!!!!』以外の何ものでもなかったです。そりゃそうだ、あの手のひらサイズの小さな体から見れば恐ろしく巨大で尚且つ雨に濡れて必死の形相をしたアラサー(ここ無関係)の女がヌォ~~と手を伸ばしてきたら『うぉー!!ヤベーの来たーーー!!!!!((((;゚Д゚))))ガクガクブルブル』ってなる。わたしがいたいけな子猫ちゃんならそうなるわ。巨神兵に襲われた民になるわ(ん?)。そこで「死んでなるものか」と本能のままに爪をたて牙をむいたあの子猫は実に勇敢でした。もう手を伸ばせない草むらを見て諦めるしかありませんでした。
 
そもそも。
ここで「保護しなければ」と思うことそのものが、いかがなものなのか。どこかで見たお題ですねと頭の中で誰かが言って、余計なお世話だみゃーと逃げ去った子猫に言われた気分でした。もちろん、ランドセル背負った子供が河川敷で捨て猫拾って「元の場所に戻してらっしゃい!by母」ってのとは違う。こちとらイイ歳の社会人集団(会社)なものですから、保護しようと向かった時にはある程度「引き取ることが出来る、もしくは里親を見つけるまで飼育できる、もしくは…(略)」という状況を確認の上だった。なのでそういうことではないのです。ただ単に、そこにある命への対応の何が正しかったのか一瞬わからなくなったのです。保護に失敗しても姿は見えなくても鳴いているし、とりあえず離乳食のような子猫用の餌を置いておいたけれど食べない。「完全にノラ猫出身だね。捕まえるのも人に懐くのも難しい」と残念そうに猫好きの同僚が言い、妙に納得しました。離乳食のようなカニカマ入りの餌も、翌日には鳴き声が確認できなくなり不要になってしまいました。「何でも取って食うよ、野生は」という特に猫好きではない上司の言葉にも妙に納得しました。
 ここで餌を与えることはノラ猫推進のようになってしまってそれはそれで良くないことなんじゃないか。餌付けしたノラ猫を放し飼いにして近隣住民に迷惑をかけてるニュースの中のモザイクの人と、突き詰めれば同じ行為ではないか。
『だって、そういうの(人間の)エゴだし』
 そんな言葉が浮かんだけれど、目が合ったあの小さな動く毛玉(子猫)をどうにかしたいと思うのは間違った感情ではない、と自分に言い聞かせました。このカニカマ入り52円子猫用の餌ひとつで、(姿を現して保護できればもちろん保護するけど)もしも隙を見て知らぬ間に食べたとして保護できなかったとして、それでも子猫に明日があるならいいんじゃないかなって思った。その時わたしはそう思った。
 
最近「これぞ情報過多」っていう出来事に遭遇することが非常に多いんだけれど、今回の(も)長ったらしく書いた雨の中子猫がいたけどもういなくなっちゃった話もその典型だったんですね、わたしにとって。理屈や理想やそれぞれの概念も諸々も痛い程わかるが目の前に突然あらわれた事実や感情はそれとは別になってしまうよね、だって人間だものにんげんだもの。よくわかんないけどノリでソレでウェーイなテンションだけじゃどうにもならないこんな世の中じゃポイズンなのもわかるが、命とか関わってくると正解不正解とかどうでもいいし、まずは今ココ目の前にある命を!とか英雄じみた感情が至極ナチュラルに沸き上がってきちゃいますよね。
ちょっと眠くて何書いてるかわからなくなってきた。
だったら別に1着しか無い制服が雨に濡れて雑巾みたいな臭いになろうが革パンプスがお陀仏しようが助けたいと思うし、この子猫が何がどうであれ晴れた日の暖かい日差しを浴びられれば、理屈も正論も制服もパンプスもどうでもいいって思っちゃいませんか人の性として。どうにか自己肯定したくて書き連ねてきましたが、着地点が見えない、降りたい、寝たい。
 
あといくつか、情報過多で立ち止まって考えてしまう話が合ったんですが文才が無さ過ぎて無駄に日本語並べすぎたので全部スルーします。わたしのように正しさを無意識に探してしまう人に向けて最後に着地点を見出そうとするならば。目の前に差し出された絶対的な揺るがない事実としてそこにある「何か」を本能的に手にすることが正しさなんじゃないかと思います。
 ↑ 不時着。
 
月曜日、お疲れ様でした。明日も良い1日になりますように。