20代でみつけた、一生のもの。
さて。8月も折り返し、着々と夏の終わりが見えてきました。
皆様、夏休みは満喫されましたでしょうか。わたしは連休前の忙しさで疲労が溜まっていたらしく予想通り体調を崩し、祖母の新盆を終えた日にダウンしました。しかし、丸一日グッチャリと液状化するように床に臥せ休息できたので、結果として良い休みでした。たぶん。どうでもいいことなんですが、新盆{あらぼん}って地域によって呼び名が違うようですね。{しょぼん}という言葉を聞いたときは「初盆」の前に「(´・ω・`)ショボン」が浮かびました、真っ先に。
当然なんですけどとっても綺麗な写真が撮れて、今まで撮れなかった写真が撮れますので、楽しいことこの上ないです。しばらくはこの標準レンズで撮り続けます。正直、わたしレベルなら十分な描写力です。上を見ればキリがなく、正直あれもあれもあれもあれもあれも欲しいってなってしまって破産の道を邁進してしまうので今は「標準」でいいのです、わたし。
有り難いことに、この夏の不思議な出会いの波はその道のプロの方や、学生兼アシスタントとして日々奮闘する同年代の方との出会いを運んできてくれました。本当に素敵な方々で、地方の隅っこで細々と暮らす女には眩しすぎるキラキラ光線を放っておられる方々でした。けれど、せっかくの巡りあわせ。自信の無さに俯くのではなく、繋がったご縁を大切にしていきたいです。もっともっと、楽しい時間を共有したいです。同時に、わたしはどんな形であれ一生写真を撮っていたいなぁと心底思いました。
父親が持っていた、canonのフィルム一眼。あの鈍く光る重たい塊が、金髪少女のお人形やセーラー服着たお仕置き戦士より魅力的で、鼠色のアルミケースは重厚な宝箱のように見えました。年月が経って、気がつけばあの時と同じ眼差しでカメラや写真を見つめる自分がいます。不思議なものですね。やはり子供のころに鮮烈に刻まれた憧れは、大人になっても色褪せないものです。(ちなみに父親は持ってるだけで殆ど撮っていなかったようですが)
写真と撮る技術はまた別箇のものじゃないかなぁとも思います。思ってこの記事を書いています。わたしは技術が皆無なので。
わたしは写真に何度も救われました。それは技術とかカメラのスペックとかそういう問題じゃなく、写真そのもの、ただ1枚の写真の力でした。たぶん『写ルンです』とか、そのへんで1000円くらいで買った使い捨てカメラでカチャコーンとシャッター押しただけの写真に閉じ込められた過去が、わたしをどこまでも慰める力を持っていたのです。わたしはそういう意味での写真が好きです。シャッター押した瞬間にその瞬間は過去になってしまっているわけで、結局現在も未来も撮れないんですね。「あんなことあったね」の瞬間を切り取るという意味での写真が好きです。それで十二分で、あとは+αなんじゃないかなとも思います。その+αがたまらなく面白くて「もっと上手になりたい!」とか思ってしまうんですが。
大切な人を亡くし、迎える初めてのお盆。親戚には、去年はまだこの世界にいなかった新しい女の子も加わりました。下手くそな撮り手でもNikonちゃんが「しょうがねーな」と頑張ってくれたおかげで、きっとあの子が大きくなったら手に取り微笑んでくれる程度の写真は撮れました。それで一先ず、レンズの衝動買いを正当化出来ました。やっぱり今年の夏は、最高の夏だ。
ここのところ、色々と難しく考えていたのでアウトプットも兼ねて更新。写真を愛する皆様には生意気な記事だったかもしれませんが、日記ということでご容赦ください。
ゴテゴテさせたくても付属品の持ち合わせがなければシンプルにいくしかないのだ。
シンプルに行こうぞ。やりたいこととやるべきことを、イコールで結ぶのだ。
連休明けの鈍った体に鞭打って、今週も頑張りましょう。
穏やかで普通の、幸せな毎日を。