本と言葉
本は良いです。
時に本は、わたしのような人間の唯一の逃げ場所となります。扉を開くように本の表紙を開き、作中に漂う空気となり、流れる川の水となり、照らす光の粒子になり、物語に同化します。そうしてようやく、日常で自分を苦しめる無意味で雑多な思考の屑から解放されるのです。
昔から、周期的に物凄く本を読みたくなる、読まなければいられない時がやってきます。頭がとにかく言葉を欲しがっていて、自分の足らない語彙を繋ぎ合わせた陳腐なソレじゃなくて、もっと流れるように入り込んでくる完成された美しい文字列をひたすら追って頭に文字を詰め込みたくなるのです。
1週間に4~5冊ペースで読むため、1ヶ月以上続くと眼球が疲労困憊精根尽き果てます。速読の技術などないため、日々の生活も読書時間に圧迫されます。そして現在上記症状真っ只中で、昨夜は再び本を抱えて帰宅しました。以前は書店で調達していたのですが、とんでもない金額になるので最近はめっきり図書館です。そうそう、わたし図書館も好きです。人の知が本の形を成して静かに息を潜めています。煌びやかな装飾品の陳列なんかよりよっぽど良い。本屋さんも好きですが、あの独特の凛とした空気は図書館ならではですね。
わたしは、自分が言葉をため込むタンクを持っているのではないかと感じる時があります。タンクが枯れるまで言葉を使い、空っぽになるとまた大量の本から言葉を吸収し溜め込んでいっぱいにする。枯れたタンクからは、何の言葉も生まれない。1日1週間1ヶ月に話せる言葉には上限があるように思うのです。オーバーしてしまうとプツリと言葉が止まってしまい、次に話す言葉も話したい言葉も、そもそも話したいという思いも、突如姿を消してしまいます。そうしてまた本の扉を開いて、ひとり静かに充電して、感情と言葉を取り戻すんです。そうしてまた、誰かに会って話がしたいと思い、誰かに会いに行くんです。こうしてブログという現実と非現実の間にポッカリ浮かんだ空間にアウトプットを繰り返すのも、自分の中に血液のように循環する言葉の新鮮さを保つためだと考えています。吸収し、自分の中身と同化させ、ようやく意味を成した言葉を腐らせないように。
年齢を重ねるにつれて、日々の中でふと自分を見失ったときの恐怖が大きくなりました。自己が確立され静寂が訪れたからこそ、ふとした一瞬の恐怖が強烈に胸を支配します。静寂は時に煩いものです。あれこれと騒ぎ立てるくせに、手にしたい本質を霧の中に隠してしまいます。そうした時、記憶の中に眠る言葉たちが突然に光り、灯台のように照らしてくれるのです。励まし、慰め、戒め、奮い立たせてくれるのです。
本は良いです。どれ程読んでも終わりがない。わたしが一生かけても、この世のすべての本を読むことは不可能です。扉は無限に存在し、言葉は幾重にも重なり扉の向こうで開放を待ち侘びています。人が、空気が、水が、山が、感情が、倫理が、定義が、発見が、数十年数百年前を生きた人間の知の化身が、数珠のように連なり眠っています。私の限られた人生で可能な限り、扉を開き続けたいです。あと何冊の本を、わたしは読めるんだろう。
ひたすら思考を書きなぐった系日記(はたしてこれが日記なのか怪しいですが)、年が明けてから更新していなかったので更新します。Evernoteの中で消滅していく記事が多いので、どうせならもっと更新ボタンを押せば良いのに、自分。今月読んだ本はとても素敵なものが多かったので、後日読書感想文でも書きます。
最強寒波とやらで極寒ですが、みなさまご自愛を。