土曜日の秋
もはや月報ですらなくなったこの日記。
重い腰と重いパソコンを立ち上げ、いつものようにEvernote立ち上げたら散文とも呼べないようなメモがいくつもあり、ブログ用フォルダにアウトプットを果たせなかった屍どもが溢れておりました。
わたし自身も屍のように白目向いてみたり、なんのこれしきと瞳孔カッぴらいてみたりしながら、気付いたら9月終盤という驚愕の事実。早いよ。ちょっと待ってよ。
9月最後の土曜日である今日。
朝ゴミ出しをしてから少し本を読んでいたらウトウトしてしまって、少しだけ現れた晴れ間と子どもたちの歓声、それからほんのり香る甘い匂いに目を覚ましました。
近くの小学校では運動会だったようで、駅からの通り道である我が家の前を何組もの家族が通り過ぎていきます。天気のこと、お昼ごはんのこと、息子のこと、娘のこと、お兄ちゃんのこと、お姉ちゃんのこと。とりとめなく通り過ぎていく言葉と笑い声に、なんとも穏やかな目覚め。時折届く歓声が、運動会が盛り上がっていることを知らせてくれました。
もうひとつの知らせはとても嬉しくて、アパートの隣、それもわたしの部屋の窓からすぐの場所に、大好きな金木犀の木があったのです。ゆるゆるとした風が吹いて、小さく咲き始めた金木犀の香りを運んでくれました。これから少しして満開になれば、むせ返るほどの甘い匂いが部屋に届くだろうなぁと考えて嬉しくなりました。ルームフレグランスを買おうか悩んでいたけど、もう少し先にしようと思います。
越してきて4ヶ月。大好きな秋が来ました。
ここのところ、辛いとか苦しいとか大変とかではなく、わたしが持ち合わせている承認欲求の中の「自分にしか満たせない枠」が全く満たされず、いや、満たされるどころか一滴の潤いも与えられず、ねっとりとした自己否定感に囚われていました。誰かと過ごしても、実家に帰省しても、新しいことを始めようとしても、本を読んでも、映画を見ても、わたしを見ているわたしが恐ろしく冷たい目をして言うのです、「それでいいのか」と。
足りない知識、進まない仕事、上がらないレベル、見えない成長、届かない人々。
痛感する学の無さ、直面する能力の低さ、突き付けられる育ちの差。
溜まり続ける目を通すだけのビジネス書、一定の箇所から先に進めない教科書。
理解し合うことを諦めた地元の友人、自分の理解が及ばない先を歩む友人。
時間という概念は、ひどくシビアです。そして恐ろしいほど大量の事象を抱え人を飲み込み、一瞬のうちに流れ去ります。
浮足立つような希望や幸福感は時間と共に軽やかに流れ去るのに、孤独感や寂寥感は重く、一緒に流れ去ってくれないのです。
川底に沈む泥のように、わたしの日常に存在しようとするのです。
抑えきれず駅のホームで泣き出した夜、同じホームでけたたましく泣き叫ぶ女がいて、東京に来て良かったとボンヤリ思いました。
わたしの涙を白眼視する人間も、感興の赴くままに覗きこむ人間も、ここにはいない。
本当に、何でも出来て何にでもなれて、何でも無い何てこともない人間なんだと実感しました。
先日買った雑誌に掲載されていた稲盛和夫さんのインタビューに「神に祈ったか」という言葉がありました。
「どうかうまく焼成できますようにと神に祈ったか」
仕事に行き詰まり、追い詰められ、疲弊する部下に向けた言葉です。
この思いを、わたしは味わいたいんだと気付きました。自分が情けないと思うのは、いつも石橋を叩いて叩いて叩き割る臆病な性格のせいで一歩を踏み出すことが出来ないことや、言い訳をして楽な方に流れようとする自己統制力の無さであって、結果云々ではなかったのだと。「これでいいのか」と「これでいいのだ」の繰り返しの中に、惰性が存在することが、今の自分には耐え切れないのです。わたしは無宗教ですが、天を仰いで祈るしか策がないほど精魂を傾けることを、今のわたしは欲しているのです。暑苦しいですね。自分でもこれ打ってて「クソ暑苦しいなコイツ」と思い始めてきました。でもこの気付きは、片膝つきかけていたわたしをもう一度歩かせました。
たった4ヶ月でこれって、この先大丈夫ですかって質問は、ちょっとアレなんで数年後にしてください(笑
こうやって潰れて気付いて起き上がって、やっていきます。
と、いうことで(どういうことで)
ようやくノタノタ歩きを再開して、こんなにも穏やかな休日を金木犀の香りに包まれて過ごし、わたしは今日も元気に過ごしています。
明日は大好きな友人と、わたしの将来やりたいスタイルで仕事をされている方のお宅にお邪魔します。ランチに招待していただいたのですが、意気消沈しているわたしのために友人がさり気なくセッティングしてくれたのかなぁなんて密かに思っています。本当に恵まれています。
秋の夜長、ひんやりしてきたので風邪などひかないように皆様ご自愛ください。
よい週末を。