UptoU

アラサーOLの、もがく日記。

まいにちのはなし

冬がそこまで来ていますね。
昨日、買い物途中にふと目についた柿を買って食べました。近頃人工の甘味料ばかり食べていた自分の舌が、久々に健全な甘味に触れて喜んでいました。秋はわたしの五感の全てを満たしてくれるので大好きです。冬将軍がもう少し足踏みしてくれれば嬉しいのですが、来週あたりには攻め込んできそうですね。
 
ここ数か月、仕事での波(長い目で見れば今の環境での第一波とでも言うべき)を乗り越えて、まずまずの心持で年の瀬に向かっています。あれやこれやと色々なことが起こりますが、深呼吸してみれば大抵のことは笑って通り過ぎることが出来ています。生活に有意味感があると言うのは幸せなことですね。総じて楽しければ万事良し、ってな感じです。
 
相変わらず隙を見ては本を読んでいるのですが、最近「出会った」と表現したい本が2冊あります。エッセイと呼ばれるものが嫌いだったわたしが、この本はきっと何度も読み直すと確信した2冊。
春になったら莓を摘みに

春になったら莓を摘みに

 

 

不思議な羅針盤

不思議な羅針盤

 

 そもそも、ここ数か月は梨木香歩さんの本を読み漁っています。(ほぼ梨木香歩さんの本しか読んでいない)物語そのものもさることながら、美しい日本語に魅了されてしまいました。世界観の全てが素敵なのです。映画化された『西の魔女が死んだ』の印象が強いですが、『家守綺譚』や『裏庭』『沼地のある森を抜けて』等々、濃厚ファンタジー作品も端麗な日本語で淑やかに書き上げており、どの作品をとっても、著者が描くしっとりとした美しい湿地帯の中にふらふらと入り込んでしまうような感覚を味わえるのです。著者の物語にはまり込んで、中身も確かめず買った中に上記のエッセイが入っていました。

『春になったら莓を摘みに』は異国での日常や出会いが登場人物への尊敬と情愛の念を込めて書かれており、『不思議な羅針盤』は今この瞬間のような何でもない日常を著者の感性と筆力で珠玉の内輪話に仕上げたようなお話が書かれています。今まで何度か手にしたエッセイというものは、どこかしらに「自分の生き方への絶対的肯定感」が感じ取れて苦手でした。自己啓発本にあるような押しつけがましさが行間に見え隠れして、妙に白ける感じがあったのです。それがこの本には感じられませんでした。要は著者が、完全に「わたし好みの人」だったのです。
物語の時にも感じていた言葉の使い方、生活に対する姿勢、他人との距離感、女性としての生き方。ひとつも違和感なく、わたしを代弁してくれているような、肯定してくれているような、安心させてくれているような、不思議な気持ちにさせてくれる本でした。他人との感覚のズレで起こる小さな溝を、修復するでもなくただそこに在ることを認めてくれるような、そんな感覚。日常の淡い美しさに気付けるのです。潔く生きる(著書では植物に向けて似た言葉が使われていたけれど)、という言葉に、自分の生き方の理想形を見つけました。穏やかに健やかに生きることの潔さ。半径数メートルの世界で起こる幸せを喜ぶ日常。依存せず共存するという距離感。わたしが思う生き方が、静かに散りばめてあります。雑音や雑念に心の核となる部分が覆われてしまうことがあったら、この本を開こうと思っています。朝とともに、どれも1回限定で訪れる「まいにち」を、自分の出来る範囲で大切に過ごすために。
 
時々、ふと「あ、わたし今さみしいのか」と気付く瞬間があります。若い頃の「人恋しい誰かといたい構ってほしい」という寂しさとは違い、本物の孤独がわたしの中で成熟して形を成したんだと思います。だからこそむやみやたらに誰かと過ごさず、自分自身のその感覚と付き合って「まいにち」を過ごすことを大切にし、自分の本当に好きなもの好きなこと好きなひとを探して選定しています。そうして日々、自分を好きになっています。不思議なもので、自分を好きになればなったぶんだけ、他人を好きになれるのです。自分の「まいにち」を大切にすればするだけ、他人の過ごす「まいにち」を大切にできるのです。誰といてもどこにいても訪れる孤独は、それが成熟されたものであるならば、他人と生きるために必要不可欠なものです。
現実は苦しく、過去は重く、未来は暗く、それでも「まいにち」は素晴らしいです。退屈で寂しくて悲しくても「まいにち」は素晴らしいものなんだなぁと感じるんです。その漠然とした誰とも共有できない(気恥ずかしい、という理由で)感情を、初めて読了したエッセイが言葉にしてくれました。こんな雰囲気の毎日を過ごしたいんだ、というぼんやりした理想形と共に。
 
なんだか久しぶりにブログを書きました。いや、いつも久しぶりですね。今年もあと1か月と少し。わたしも、みなさまも、悔いなく風邪引かずマイペースに、良き「まいにち」を。