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アラサーOLの、もがく日記。

王女の涙

なんということか。年末がすぐそこに見える。
 
久しぶりに、好きな作家リストが更新されました。大庭みな子さん。
読みはじめに「こんなに好みなのになぜ今まで出会わなかったんだろう」と考えてみて、読み終わった頃には「今だからこそ出会った本だったな」と納得。やっぱり本はいいです。大型書店でも古本屋でも図書館でも、ここぞと言うときに読むべき本がわたしの手を誘うように思います。
王女の涙 (新潮文庫)

王女の涙 (新潮文庫)

 
自我の炎をこすりつけてころげまわるような生き方が、自分自身に連なるものとして尖端にあれば、自分自身は平穏に暮せる。燃えている炎は平穏な部分をどのように感じているのであろう。
その中間で、尖端の部分だけを見つめ、地下に根を張って、吸い上げるものの力の在りかは気にならず、ひたすらゆらめく炎ばかりを見つめて不幸になっている人の姿は、今では多少の鬱陶しさを混えた哀切なものに映る。
 
わたしは小説に対して、狂気に侵された女を登場させるならば必ず人間の本質を描いてほしい、というよくわからない願望があります。この小説に出てくる女性はどれも生々しくて、どれも女らしくて、とても良い。そして人の生きる、暗く影を引きずりながらも、ただ生きるそのことが、それぞれの章で起きる出来事の中に書かれています。ただ生きる、そのもの哀しさ。ひとの憎しみと怒りのほの暗さ。笛子が、気の狂った笛子がわたしにはあまりにも哀れで、でもこの作中の誰よりも痛いほど共感してしまいました。奥底にある寂しさと悔しさ、苦しみと憎しみが、文字に起こされていない部分で胸に響き、辛くなります。必然的な、連鎖する命の中で、悲劇の集大成を背負った女。連なる長い糸の間にできた毛玉みたいな子供が、幸せになる方法ってあるんだろうか。
 
解説を読んでみたら「王女の涙」は三部作の第三作だったようだけど、この一冊だけでも相当に素晴らしい本でした。しばらく本を読む余裕すらなくなっていたわたしを、引き戻してくれた本です。「ふくない虫」と「浦島草」も必ず読んでみようと思います。
 
 
今、毎日の日々を書き記すとしたら、夏の日記の終盤に書いた大海原で巨大なうねりに巻き込まれて沈没しそうになっています。
野生の勘と僅かな知識で突き進んでいた航海の中、舵が取れず目的地の島がどの方向にあるのか、よく見えない。荷物が重くて、捨ててしまいたい。重ねた経験値の在りかを探ってみたら、その経験値が舵の動きを鈍くさせているみたいで、積んだ荷物の中で一番重い。けれど捨てたらもう、船は沈んでしまう。
 
人の汚い部分ばかり見えてしまう。こういう時は決まって、自分が揺らいでいる時ですね。
人間は綺麗なものと汚いもの両方持ち合わせた生き物であって、そんな当たり前のことを見失って他人を見ている時は、自分自身の軸がぶれ、何かに寄生しようとする「他者への期待値」が膨らんでいます。自分が歩く道に不要ならば、小細工や小賢しい仕掛けなど踏み潰せばいいだけのこと。足を取られるのは、無用な期待に目が眩み、現実を直視していないからです。
排他的であるということは、時に社会的共存のために必要な要素なんだと思います。
 
何度でも、自分を見直そう。自問自答をやめたらいけない。
残り数ヶ月、今年も無事に年の瀬を迎えるように。この波を越えよう。