UptoU

アラサーOLの、もがく日記。

2分の1のわたしへ

わたしはたしか、エクステを付けた金髪だった。もともと大きい目をグルリと囲んだアイライナーに、上下にべっとりマスカラを塗っていたような気がする。

ボーダーのポロシャツに緑色のエプロン、何色だか忘れた三角巾をつけて、田舎の国道沿いの小さなファストフード店で挨拶をした。1ヶ月前まで一緒だった同級生は高校で2度目の始業式の後、クラス替えに一喜一憂していたのだろう。

未だに忘れない。小さな戸建ての店舗には広めの屋根裏部屋があって、これまた小さな窓の横に置かれたテーブルに座って休憩時間を過ごしていた。窓から見える景色は二車線の道路と畑だけ。絵に描いたような田舎。来る日も来る日も、潔さすら感じるほど殺風景な景色を見ながら、不安が心臓を掻き毟った。

「わたしはこれから、どうなるんだろう」

世界があの窓枠の中だけのような気がした。

 

あの時わたしは、16歳だった。

 

勉強への未練も、友達への未練も、普通への未練も、何もかもタラタラタラタラタレ流しながら、ゆるゆるの豆腐みたいな覚悟を携えて社会に出た。

小賢しい()女子高生は、自分が選択した「ドロップアウト」の真意をきちんと理解していたように思う。傍で見ていた大人よりも冷静だったと言い切れる。今考えても、それ以上も以下もなく、最善の選択だった。近ごろアルファベット3文字で称される地方の人種に括られようとも。不幸なのは、その人種にすら溶け込めなかったことなんだろう。わたしはどこにも属せなかった。属すことができないまま、今年の春を迎えた。16歳のわたしが、あの小さな窓から初めて外を覗いた日から、16年経った。

 

あの日のわたしの、倍生きた。

 

高度160m。南東123°の方向には銀色の新電波塔が小さく見えて、少し右を向くとビル群の隙間から朝日を浴びた東京湾が輝く。朝9時、デスクから見える風景が信じられないほど変貌を遂げても、あの屋根裏部屋の小さな窓から見た風景を忘れた日は1日も無い。

今、窓の外に見る風景がどれほど美しいか教えてあげたい。東京の街が朝日に輝くときを、沈む夕日が照らす橙色の大都市を、見惚れるほどの夜景のパノラマを。あの日、不安に涙し、誰の理解も得られない孤独に苦しんだ16歳のわたしに。誹謗の言葉と偏見の目に傷付き、ひとり打ちひしがれていたわたしに。今目に映る風景を教えてあげる、ただそれだけで、どれだけ救われた夜があっただろう。

 

わたしはまだ31歳で、人生を語るには若すぎて、でも若者と呼ぶには齢を重ねすぎている。この僅かな人生でも、半分は長い。16年は長かった。通勤の電車で楽しそうに話す女子高生を見ると、そのあまりの幼さに驚く。その清廉さ、清潔さ、何よりも正しさに、目を見張る。こうあるべきなのだと強く思う。こうありたかったと、素直に思う。

 

守りたいと願ったものは守られたと伝えたい。要所要所で下した選択は概ね正しいと伝えたい。傷つけてくる人間が取るに足らない存在だと伝えたい。誰にも言わずにいるその思いを忘れずに今もいることを伝えたい。未だに苦しむ現実を、その齢で苦しむのは当然だと伝えたい。きみは今できる最善の選択を出来ているのだと伝えたい。

今どれほど苦しくても、あの頃のわたしに伝えてあげたいと思える程度の日々であることは幸福だと思う。

 

花粉に苦しめられながら散り始めの桜を見ると、いつもあの窓枠ごしの風景が頭をよぎる。どうか成仏してくれと思いたくなるような日々でも、きっと一生忘れられない。今後また生活が変わることがあるのなら、先に忘れるのはこの高層ビル群の風景だろうと思う。結局わたしは、あの頃と大して変わらないままだと自覚している。

金髪ギャルメイクの女の子が頬杖をついて窓の外を眺める風景を、三十路を過ぎたスーツの女が後ろから見ている。もしもわたしが絵でも描けたなら、わたしの頭の中の風景を絵で残せたのにと思いながら、今日も新宿で残業。

 

 

iPhoneのメモ帳に書いておいた内容、語尾がいつもと違うけど修正する時間無いので更新しようと思います。あけましておめでとうございます。(4か月遅れ)今年も1年、ひっそりと生きます。そしてひっそりと願います。わたしと同じ思いをする子どもが、1人でも減るように。

王女の涙

なんということか。年末がすぐそこに見える。
 
久しぶりに、好きな作家リストが更新されました。大庭みな子さん。
読みはじめに「こんなに好みなのになぜ今まで出会わなかったんだろう」と考えてみて、読み終わった頃には「今だからこそ出会った本だったな」と納得。やっぱり本はいいです。大型書店でも古本屋でも図書館でも、ここぞと言うときに読むべき本がわたしの手を誘うように思います。
王女の涙 (新潮文庫)

王女の涙 (新潮文庫)

 
自我の炎をこすりつけてころげまわるような生き方が、自分自身に連なるものとして尖端にあれば、自分自身は平穏に暮せる。燃えている炎は平穏な部分をどのように感じているのであろう。
その中間で、尖端の部分だけを見つめ、地下に根を張って、吸い上げるものの力の在りかは気にならず、ひたすらゆらめく炎ばかりを見つめて不幸になっている人の姿は、今では多少の鬱陶しさを混えた哀切なものに映る。
 
わたしは小説に対して、狂気に侵された女を登場させるならば必ず人間の本質を描いてほしい、というよくわからない願望があります。この小説に出てくる女性はどれも生々しくて、どれも女らしくて、とても良い。そして人の生きる、暗く影を引きずりながらも、ただ生きるそのことが、それぞれの章で起きる出来事の中に書かれています。ただ生きる、そのもの哀しさ。ひとの憎しみと怒りのほの暗さ。笛子が、気の狂った笛子がわたしにはあまりにも哀れで、でもこの作中の誰よりも痛いほど共感してしまいました。奥底にある寂しさと悔しさ、苦しみと憎しみが、文字に起こされていない部分で胸に響き、辛くなります。必然的な、連鎖する命の中で、悲劇の集大成を背負った女。連なる長い糸の間にできた毛玉みたいな子供が、幸せになる方法ってあるんだろうか。
 
解説を読んでみたら「王女の涙」は三部作の第三作だったようだけど、この一冊だけでも相当に素晴らしい本でした。しばらく本を読む余裕すらなくなっていたわたしを、引き戻してくれた本です。「ふくない虫」と「浦島草」も必ず読んでみようと思います。
 
 
今、毎日の日々を書き記すとしたら、夏の日記の終盤に書いた大海原で巨大なうねりに巻き込まれて沈没しそうになっています。
野生の勘と僅かな知識で突き進んでいた航海の中、舵が取れず目的地の島がどの方向にあるのか、よく見えない。荷物が重くて、捨ててしまいたい。重ねた経験値の在りかを探ってみたら、その経験値が舵の動きを鈍くさせているみたいで、積んだ荷物の中で一番重い。けれど捨てたらもう、船は沈んでしまう。
 
人の汚い部分ばかり見えてしまう。こういう時は決まって、自分が揺らいでいる時ですね。
人間は綺麗なものと汚いもの両方持ち合わせた生き物であって、そんな当たり前のことを見失って他人を見ている時は、自分自身の軸がぶれ、何かに寄生しようとする「他者への期待値」が膨らんでいます。自分が歩く道に不要ならば、小細工や小賢しい仕掛けなど踏み潰せばいいだけのこと。足を取られるのは、無用な期待に目が眩み、現実を直視していないからです。
排他的であるということは、時に社会的共存のために必要な要素なんだと思います。
 
何度でも、自分を見直そう。自問自答をやめたらいけない。
残り数ヶ月、今年も無事に年の瀬を迎えるように。この波を越えよう。