UptoU

アラサーOLの、もがく日記。

土曜日の秋

もはや月報ですらなくなったこの日記。
重い腰と重いパソコンを立ち上げ、いつものようにEvernote立ち上げたら散文とも呼べないようなメモがいくつもあり、ブログ用フォルダにアウトプットを果たせなかった屍どもが溢れておりました。
わたし自身も屍のように白目向いてみたり、なんのこれしきと瞳孔カッぴらいてみたりしながら、気付いたら9月終盤という驚愕の事実。早いよ。ちょっと待ってよ。
 

9月最後の土曜日である今日。

朝ゴミ出しをしてから少し本を読んでいたらウトウトしてしまって、少しだけ現れた晴れ間と子どもたちの歓声、それからほんのり香る甘い匂いに目を覚ましました。
近くの小学校では運動会だったようで、駅からの通り道である我が家の前を何組もの家族が通り過ぎていきます。天気のこと、お昼ごはんのこと、息子のこと、娘のこと、お兄ちゃんのこと、お姉ちゃんのこと。とりとめなく通り過ぎていく言葉と笑い声に、なんとも穏やかな目覚め。時折届く歓声が、運動会が盛り上がっていることを知らせてくれました。
もうひとつの知らせはとても嬉しくて、アパートの隣、それもわたしの部屋の窓からすぐの場所に、大好きな金木犀の木があったのです。ゆるゆるとした風が吹いて、小さく咲き始めた金木犀の香りを運んでくれました。これから少しして満開になれば、むせ返るほどの甘い匂いが部屋に届くだろうなぁと考えて嬉しくなりました。ルームフレグランスを買おうか悩んでいたけど、もう少し先にしようと思います。
越してきて4ヶ月。大好きな秋が来ました。
 
 
ここのところ、辛いとか苦しいとか大変とかではなく、わたしが持ち合わせている承認欲求の中の「自分にしか満たせない枠」が全く満たされず、いや、満たされるどころか一滴の潤いも与えられず、ねっとりとした自己否定感に囚われていました。誰かと過ごしても、実家に帰省しても、新しいことを始めようとしても、本を読んでも、映画を見ても、わたしを見ているわたしが恐ろしく冷たい目をして言うのです、「それでいいのか」と。
 
足りない知識、進まない仕事、上がらないレベル、見えない成長、届かない人々。
痛感する学の無さ、直面する能力の低さ、突き付けられる育ちの差。
溜まり続ける目を通すだけのビジネス書、一定の箇所から先に進めない教科書。
理解し合うことを諦めた地元の友人、自分の理解が及ばない先を歩む友人。
 
時間という概念は、ひどくシビアです。そして恐ろしいほど大量の事象を抱え人を飲み込み、一瞬のうちに流れ去ります。
浮足立つような希望や幸福感は時間と共に軽やかに流れ去るのに、孤独感や寂寥感は重く、一緒に流れ去ってくれないのです。
川底に沈む泥のように、わたしの日常に存在しようとするのです。
 
抑えきれず駅のホームで泣き出した夜、同じホームでけたたましく泣き叫ぶ女がいて、東京に来て良かったとボンヤリ思いました。
わたしの涙を白眼視する人間も、感興の赴くままに覗きこむ人間も、ここにはいない。
本当に、何でも出来て何にでもなれて、何でも無い何てこともない人間なんだと実感しました。
 
先日買った雑誌に掲載されていた稲盛和夫さんのインタビューに「神に祈ったか」という言葉がありました。
「どうかうまく焼成できますようにと神に祈ったか」
仕事に行き詰まり、追い詰められ、疲弊する部下に向けた言葉です。
この思いを、わたしは味わいたいんだと気付きました。自分が情けないと思うのは、いつも石橋を叩いて叩いて叩き割る臆病な性格のせいで一歩を踏み出すことが出来ないことや、言い訳をして楽な方に流れようとする自己統制力の無さであって、結果云々ではなかったのだと。「これでいいのか」と「これでいいのだ」の繰り返しの中に、惰性が存在することが、今の自分には耐え切れないのです。わたしは無宗教ですが、天を仰いで祈るしか策がないほど精魂を傾けることを、今のわたしは欲しているのです。暑苦しいですね。自分でもこれ打ってて「クソ暑苦しいなコイツ」と思い始めてきました。でもこの気付きは、片膝つきかけていたわたしをもう一度歩かせました。
 
たった4ヶ月でこれって、この先大丈夫ですかって質問は、ちょっとアレなんで数年後にしてください(笑
こうやって潰れて気付いて起き上がって、やっていきます。
 
 
と、いうことで(どういうことで)
ようやくノタノタ歩きを再開して、こんなにも穏やかな休日を金木犀の香りに包まれて過ごし、わたしは今日も元気に過ごしています。
明日は大好きな友人と、わたしの将来やりたいスタイルで仕事をされている方のお宅にお邪魔します。ランチに招待していただいたのですが、意気消沈しているわたしのために友人がさり気なくセッティングしてくれたのかなぁなんて密かに思っています。本当に恵まれています。
 
秋の夜長、ひんやりしてきたので風邪などひかないように皆様ご自愛ください。
よい週末を。

さよなら28。

気が付くと月が変わっております。気付いたら7月の後半に片足突っ込んでました。

東京は噂通り、毎日が足早に過ぎていきます。「時間の流れが違う」という使い古された言葉を、身に沁みて感じています。この街は本当に、独特の時間軸で生きているんですね。
 
わたしはこの街で、あと数時間後に、29歳になります。
 
29歳の誕生日を、東京で迎えるとは夢にも思いませんでした。ハタチの時も、25歳の時も、去年の誕生日も、ここにいる自分を想像した日はありませんでした。不思議なものですね。
28歳という、一生に一度しか無い一年間、わたしは大きく大きく変わりました。自分でも時折恐怖を感じるほど、物事がメキメキと音を立てて動き出し取り巻く世界がドンデンのように様変わりしました。この一年を振り返ってみると、なんだか夢の様な時間でした。強烈な勢いで運命の歯車が動いたように思います。もしくは、誰かがわたしを在るべき場所に引きずり出し、救ってくれたような気もします。
ここが自分の死に場所かと問われると首を傾げてしまいますが、今生きるべき場所は他でもなくここであるということだけは確信しています。それで十分なんだと今は思います。
 
 
すべてのものは、変わっていきます。
思うがままに、在るがままに、変わっていきます。
永遠に続く幸せも、永遠に続く不幸もない。
何もかもが、変わっていくのです。
わたしたちには、結局「今」以外に無いのです。
 
20代を振り返ると、怒涛の日々でした。
泣いたり怒ったり苦しんだり妬んだり忙しかったなぁって思いますね。誰かと比べて自分を見失って、見失った自分を必死に探して、それの繰り返しでした。
 
本当に大切にしなければいけないものは、どんな時もわたしに優しくて甘やかしてくれるから、調子に乗って傷付けてしまいました。それでも、愛すべきすべてのものは、子供染みたわたしの愚行をすべて受け入れて、変わらずわたしの人生に寄り添ってくれています。わたしが投げつけた恨みも、叫んだ憎しみもすべて飲み込み、わたしの人生に寄り添っています。わたしはそうやって出来上がっています。多くのものを憎みました。憎んで妬んできました。それも良い経験だったんだろうと思います。「怒りや憎しみが人の生きる糧にはならない」ということを、身を持って感じることが出来ました。
 
追いかけて追いかけて、泣きながら過去を追いかけて生きてきました。戻らないものを求めて、他人の目に晒されない自分の中だけに美しい過去を閉じ込め、創り上げ、ひたすらその中に沈み込んでいました。誰か救ってくれと言いながら、誰にも触れさせない理想郷を抱きしめて、シクシク泣くことで自分を保っていました。若かったんですね。今も別に年寄りだとは思いませんが、きっとこのリアルタイムの感傷は本当のおばあちゃんになったら忘れてしまうから、噛み締めておきたいです。若くて臆病だった自分を温かい目で見つめられる「今」を噛み締めておきたいです。
 
すべては本当に変わっていくんです。
終わらないものはないし、止まり続けてるものもない。
すべては時間が前へと押し出し、新しい始まりへと向かうのです。
 
だから、大丈夫。何がだ?いや、全部。ぜんぶ大丈夫。
否が応でも、後ろ向いてても、結局は進んでくんです。
 
なんかよくわかんない内容だけど書き直してる時間なさそうです。
もう22時ですね。
 
今の自分の反省とかは、明日からでいいかな。
28歳最後の夜だから、褒めるだけでいいかな。
28年間の自分を、ひたすら賞賛していいかな。
 
29歳は勝負の年でしょう。
28歳は変化の年でしたが、20代最後の1年、いよいよ本番が始まると覚悟しています。今わたしの手の中にあるすべてを形にして、根をはやし色をつけていく年になりそうです。それなりに、苦しいことに直面する覚悟をもって、腹据えて挑みます。
 
ではあと2時間、一生こない28歳を噛み締めて、たぶん0時前には寝ます(笑)
 
みなさま、ガチの三十路手前に成長したながねこを今後もよろしくお願いします。
良き木曜の夜を。